ちっちゃいちゃんの物語

朝日新聞に「窓」というコーナーがあります。
これ、好きなんですよー。誰にでもある日常をちょっと切り取った、みたいな。
すごいドラマじゃなくても、切り取り様によって見えてくるものが違ってくるよね、と思わされるものです。
で。
これを読んでいていつも思うのですが、こんな話、コネクトロンのセッションになんぼでもあるやん!私だって窓の執筆者になれるやん!
↓私だって湊かなえになれるやん

ポイズンドーター・ホーリーマザー


はい、セッションで取り扱うのとそれを読み物にできるかどうかは別物だとは重々承知しておりますよっ。
上原隆という物書きさんがいます。その方が窓の執筆者だったとわかったのはその作品を読んで、これ窓で読んだことある!と思い出したからです。

コラム・ノンフィクションという独自のスタイル、フィクションではないわけです、実際にあった出来事を弱い者に寄り添うという視点で描かれている、これや、これやがな、私がやりたいことは!といきりたってですね、ほとんどすべての著作を読んだのですが。
が。
失敗したー、まとめて一気に読みすぎて、どれがどれかわからんようになった(バカ。
アメリカの人気コラムニストだったボブ・グリーンに似ているといわれるように、なんですか、ちょっとすかした文体が鼻につくといえば鼻につきますが、とりあげられている素材のせつなさにはかなわないのですよ。
ひとつ、とても印象に残っているものがあります。音楽評論家のピーター・バラカンの発言が取り上げられていました。
バラカンさんはどうやって番組でかける曲を決めているんですか?
あの人に聞いて欲しい、と思ってかけている、と。”あの人”が特定の個人なわけです。
ひとりの人を思ってラジオやテレビの前の視聴者に届けている。
それが私の(ない)胸に響きましてね!
そうか、あんなに多くの人を対象としている人でも、頭の中にあるのはただ一人の人なのか。一人の人に向けて発信したものが、不特定多数に受け入れられるのか。
いえ、不特定多数ではありません(どっちやねん。
同じ要素を持った人がキャッチするのです。
どこにいるかわからない、届けたい人と同じものを持っている人。どこにいるかわからないから、と発信をしなければ届くものも届きません。
セッションで姿を現してくれるちっちゃいちゃんたち、発せられた言葉は同じ痛みを持つ方のもとに届けなくては、と改めて思わされました。
これがですね、セッションのまとめや頂戴したご感想をブログにアップするまでがコネクトロンのセッションだ、ということなのです。
さあ、せっかく遭遇した数々の物語、必要な方のもとに届くように筆を磨かないと、アンモナイト。
どなたの物語もせつなくて愛おしいものです。それをわかっていただきたいのです。自分がいかに愛おしい存在であるかということをわかっていただきたいのです。
丶(・ω・`) ヨシヨシ

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