逝かれちまった悲しみに

逝く、死ぬ、つまり残された人です、「逝かれちまった人」というのは。
人は必ず逝きます。つまり、すべからく人は「逝かれちまった人」なのです。
逝った人に対してどのような感情を抱いているのか。その感情は「逝った人」とのどのような関係を示しているのか。
昨日は元配が首をくくった日でした。

バレンタインデーまで待てなかったんだね、って言った人がいました。バレンタインデーまで待てたなら、自分はこうも思われてる、と感じれたのかもしれません。こうも思ってもらえてる、需要はあるのだ、と。チョコレート、きっといっぱい貰えたでしょう。
自分より年長の人が自分より先に逝くのは当たり前ですよね。自分より年少のものが先に逝ってしまう悲しみ、やるせなさ。続くはずの命を強制終了せざるを得なかったこと、それに対してソリューションを提供できなかったことへの無力感。
いつも戦々恐々としていた2月13日の6時15分、昨日はすっかり忘れてすごしていました。こうやってだんだんと吹っ切れていくのかな、と思っていたら。
ら。
元配と共通の知人で、自死した人が数名います。その中のひとりは、音楽を共有できる人でした。
私の外タレ来日コンサート最多参戦回数なのがエルビス・コステロなんですよ。

出産してまもなく、升席みたいな4人シートで元拝とチビと一緒にコステロのライブに行ったんですよねー。それは、どうしても行きたかったから。
その時、誘ったんです、升席に一緒に行きませんか?と。
仕事があるから、行きたいけど行かれへんわー
その後すぐに、その人も首をくくったのです。
たいそうなレコードマニアで、奥さんが発見した時にはレコードがかかりっぱなしだったそうです。
逝かれてしまった奥さんはすぐに連絡をくださったのですが、間の悪いことに引っ越しの最中で電話がつながってなかったのです。
数ヶ月がすぎてから、引っ越しの連絡をしたら、逝ってしまった、とのこと。
残された山ほどのレコード、引き取ってくれないか、と言われました。部屋にはプレイヤーもレコードもそのままでした。
悔やみました、コステロ一緒に行こうよ!ともっと強く誘ってたらよかった、と。
そしたら、逝かなくて済んだかも、と。仕事に押しつぶされなくて済んだかも、と。
こうも、残された人は逝った人を逝かせてしまったことに対して自分を責めるのです。
人は自分を責めるのです、自分の「せい」だ、と。
それは、人を責めるより自分を責める方が楽だからです。
だって人を責めたら、人を責める自分、と自分責めてしまうからです。
だから、自分じゃなくて他者の「せい」にすることが必要なんです。
私を例にするなら、元配との関係に逃げさせてしまったものの「せい」です。
それはなにか、祖父母の代から始まった、親から強いられた理不尽による痛みです。
そう、母のせいではありません、祖父母のせいでもありません、その流れを作ってしまったもっと古いものです。
それが分かったなら、直近の親へのモヤモヤは払拭できるのです。
祖父母の「せい」で親もそうなってしまった、その親の「せい」で自分が被ってしまったものがあった。
自分が悪いんだ、自分のせいだ、と自分を責めているちっちゃいちゃんを、どうか楽にしてあげてください。
あなたの「せい」ではないよ、と。
あなたを「そう」させてしまったものの「せい」なのだよ、と。
そして、あなたを「そう」させてしまったものを「そう」させてしまったものがあるんだよ、と。
誰も悪くない。
傷ついたものを労わることだけをしてください。
コネクトロンにお越し下さった中にも、「逝かれちまった」方が少なからずです。命を絶たせてしまったことに対して、置いてけぼりにされたことに対して強い悲しみ、痛みを感じていらっしゃいます。
逝ってしまった人にどうもできません。逝かれてしまった人に対してこそ、ヨシヨシを。
逝かれてしまって悲しかったよね、置いてけぼりにされて寂しいよね、助けてあげれなくて悔しいよね、と。
※コステロが私にとってスイッチになってしまったのですねー。TwitterやFacebookで目にするコステロの情報が。ちなみに、いつだったかの大阪でのコステロのライブで、サプライズでニック・ロウが現れた時の感動といったら!!


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