占いの何たるかがようやくわかった(遅すぎ?

みなさんご存知のように(知らんか)、私は推理小説とかミステリーが苦手です。ほとんど読みません。で、お好きな方って推理しながら読むんですってね。そ、私は推理しないんです、考えないんです、ただ読むだけなんです、で最後に、ほー、そうだったのか、なるほど、と終わるのです。だから楽しみ方がわかってないんでしょうね。

先日、とあるカリスマ手相鑑定士さまのとこに遊びに行かせていただいてですね、占いのなんたるかについてまたしつこくお尋ねしていたら、占いってネタバレなんですよ、と実に明確なお答えをいただいたんですが、ネタバレだってことはわかったのですけど、やはり『だから?』を拭い切ることが出来ませんでね。

推理小説の結末を先に知りたい人っているでしょ、それと同じですよー、と言われ、ああ、私は別に結末知りたくないから結末を知りたがる人の気持ちがわからないのか、とちょっとだけ納得しました。

でも。

結末を知りたがる人に結末を知らせることの有効性がまだピンとこない。

よくある困るお答えしにくい質問、彼氏できますか、結婚できますか、子どもできますか、どうなりますか、彼は私のことどう思ってますか、等々。

ほかにも、それ知ってどうするの?と5秒くらい途方にくれるご質問を頂戴したこともありました。

私は原則として『どうなりたいか』をお尋ねしています。そのためにはどうすればいいか、をご提案させていただいてます。なので目的地のないご質問にはほんとお答えしにくいのですよねー。

もちろん目的地を定めることができない、というご相談もあるわけですが、その場合は『目的地を定める』ということが目的地になりますしね。

最近の占い人口(特に自分で実践する人)の急増ぶりが不思議で不思議で、ま、それもネタバレを指向する人が増えたということか、しかしなんでそのツールがタロットにこうも偏っているのか、それも不思議で不思議で。

おっと、脱線。

皮かぶりとは言いながら、一応占いというものを使っている身としては、もっと納得のいくものを自分の中に持っておきたいのですがなかなかスッキリしませんでしてねー。

で、私が最も信頼をしている占いといえば四柱推命と易なわけですが、まあ、悩んだ時は基本に戻れ、ということで易経(銭天牛のではなく)を読み返していたらですね、ああ、これか!と膝の皿を割る記述がありましたですよ。今まで何回も読んでたはずなのに目に入ってなかったんだろうな。

リチャード・ウィルヘルムという方が易のドイツ語版を書かれたのですが(ちなみに英語版の易のタイトルは『Book of Changes』、プロセスを示していると理解しています)、その序文にこうあるそうです。

易はふつうの占いの書の域をこえる。
ある占い師が依頼者に、1週間後にアメリカからお金が届く、と伝えたとしよう。
依頼人としては来るか来ないかわからないそのお金を待つしかない。
この場合、占いは定まっていることであり、人が何をすべきか、ということには関係ない。
だから占いには道徳的意味はない。
その昔中国で、とある人が初めて尋ねた。
ある人が未来を占ってもらって、ただ聞くだけでは終わらず、それなら私は何をすべきか、と。
この時、占いの書は知恵の書物とならざるを得なかった。

んー、やっぱり『どうすべきか』が問題なわけですよね。
どうなりたいか、そのためにはどうするべきか。
何か悩み事があって、そこから脱却するってことは目的地はどこか、ということと、そこにたどり着く為にはどうしたらいいか、ってことが必須なわけですよ。

出発点(原因)と目的地(行き先)を提示することは占いでもできますが、穴ぼこを見つける、ブロックをはずす、ってことは残念ながら私の占いの技術ではどうやっていいのかまったくわからない。出来てる人にも会ったことないよ。だからNLPの技術も必須なわけですが、原因さがしと目的地設定に占いが使えるなら、そこはもっと活用しないといけないわけで。

いまさらですけど、四柱推命と易にもっと力いれていきます。ジャミラの易経講座とかしようと思ってますねん。

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