のろまな亀の中に隠れていたもの

事実は小説より奇なり。っつか、人の想像力なんてタカが知れてるから、自分が知らなかった事実が読んだことのある小説を凌駕していたってなんの不思議もないですよね。

みなさんご存知のように(知らんか)、コネクトロンには過酷としか言いようのない人生を送ってこられた方が少なからずです。よくぞ命を絶たずにコネクトロンにお越し下さった、と涙してしまいます。過酷選抜チーム(?)のトップ3に入る方、仮にサクラさんとしましょう。

サクラさんがコネクトロンを訪ねてくださったのは2012年の11月。遠方から泊まりがけでわざわざでした。記憶に残っているのはその泣きっぷりです。そこまで泣くんだ。はい、コネクトロンでは泣いていただくのが当たり前ですが、そこまで涙を流されることにちょっと違和感があったのです。その違和感の正体は後からわかりました。

セッションを終えたあと、数日たって感想を頂戴しました。そこに書かれていたのは、言葉を失うとしか言いようのない出来事でした。

あーっっ、どうしようっっ。セッションの時にこれ出していただけなかったんだ。出せなくてああも泣いていらっしゃったんだ。こんな経験されてたら、そりゃあいっぱいいっぱいだよ!!こんな思いして、よく壊れてなかったよな。

いえ、壊れてました(どっちやねん。

人は壊れて当然の出来事に遭遇した場合、どうなるか。受け入れ難いその事実、そこからダメージを受けた部分を切り離します。これがいわゆる乖離です。記憶がない、現実と自己の認識にどえらいギャップがある。ダメージを食らわせてくれた出来事に限らず何事にもフィルターをかけてしまいます。感じる力も鈍くなるし、ありのままの自分を出すことも出来なくなります。

普段はフィルターが作用しているので一見何事もなく生活していられますが、なんかの拍子にスイッチが入ります。怖かった、辛かった、イヤだった、とフタをしていた気持ちが噴出してきます。それは抑えていたものを噴出させるために入るスイッチです。いわばダムの放水スイッチです。スイッチ入れないと飽和しちゃうから、決壊しちゃうから。

過酷な出来事があってかなりの年数を重ねてから、スイッチが入りました。その間にも、これでもか、といろんな事がありました。スイッチが入って、周囲が心配するくらいに壊れてしまわれました。そして病院に身を寄せられました。そこから17年に渡る服薬人生の始まりです。

17年、長いですよね。

コネクトロンにお越しくださった時に提示された問題は、人に会うのがイヤ、でした。そして、自分はグズでノロマで困る、と。人に会うのがイヤはヨシとしましょう(よくないけどなっ)。サクラさんの命式はまったくグズでノロマなものではなかったのですよ。なんでそうもご自分のことを亀だ、のろまな亀だ、とおっしゃるのかがわかりませんでした。

はい、これもセッションの時にはおっしゃっていただけなかったことで、後ほどいただいたメールでわかったことです。サクラさんはご家族からのろまな亀として扱われていました。もちろんサクラさんがグズでノロマなわけではありません、ご家族がサクラさんをノロマ扱いしていただけだったのです。サクラさんの中には、グズでノロマ、というセルフイメージががっつりと刷り込まれてしまいました。自分はグズでノロマだ、だから何事もうまく出来ない、まわりとずれてしまう、自分はグズでノロマだから人とうまくやっていけない、というビリーフのいっちょう出来上がり。

自分がぼーっとしてちゃんと考えられなかったのは薬のせいだったのか、と気付いていただけて、セッションの後、早々に服薬を辞められました。いかんせん神戸にお越しいただいた時はほんの一部しか出していただけていなかったので、その後スカイプにてお話させていただく機会を重ねました。

お薬を辞められた後、思い出されることがたくさんありました。感じていなかったものが感じられるようになりました。まさに覚醒ですね。17年ぶりに体感したものは、時には風当たりがきつく感じられることもあったでしょう。不安に気持ちを乱されることもたびたびありました。お薬無理にやめなくていいですよ、どうしてもしんどかったら飲んでください、とお伝えしたこともありました。でもサクラさんはその都度不安を乗りこえていかれました。

スカイプでのセッション、やはりスイッチになる出来事が起きたタイミングでだったのですが、現在のこの感情は過去の何に起因するものなのか、ということを探ることになりました。その都度、思い出していただくことがあるのですが、不思議なことにいつもたどりつくのは「いかにご主人さまが大切であるか、大切に思われているか」ということなのです。

不安定なサクラさんをご主人さまは実に暖かかく見守っていらっしゃいました。そんなご主人さまにサクラさんは、私なんか、とおっしゃるのです。私と別れたほうがいいんだ、と。迷惑ばかりかけている、いい奥さんをしてあげられない、と自分を責め続けていらっしゃいます。

ほんと不思議なくらいに、過酷な人生を歩んでこられた方ってギフトとしかいいようのないくらいに、素晴らしいご主人さまと結ばれていらっしゃるのですよね!で、その事実を受け入れられない。こんなダメな自分に、と。嫌いな人と別れられないことと、愛されていることを受け入れられないこと、ひょっとすると後者のほうが不幸なんじゃないかな、って思いますよ。

愛されているという事実がなぜ受け入れられないのか。これも過去に起因しますが、つまり愛されていることを受け入れるメリットよりも、愛されていないと思うメリットのほうが勝っているわけです。なぜ愛されていないほうが都合がいいのか。

逆のパターンもよくあるんです。実は愛されてなかったのに一生懸命に、私は愛されてた、と自分を言い聞かせていらっしゃる。これ、なぜかおとうさんに対して多いんですよね。おとうさんのバイオレントな言動にはフタをしてしまって、1回だけ遊園地に連れて行ってもらったこととか、1回だけ買ってもらったケーキ、その想い出だけでほかの出来事をチャラにしようとされるのです。

チッチッチッ。遊園地やケーキの1回や2回でボコボコにされてたこと相殺したらあきまへんで。

なぜこれをやってしまうかというと、愛されていなかった、望むように大切にされていなかった、という事実に向きあいたくないからです。

では、愛されているということを受け入れられないのはなぜか。だって愛されてないと思っていたから。そして愛されていないがゆえに受けていた仕打ちを恨んでいたから。愛されていたことに気付いてしまうと、恨んでいた自分を責めてしまうのです。あんなに愛されていたのに、私ったらおとうさんになんてひどいことを!と。

罪悪感に耐えられません、なので甘美な「実は愛されていた」という事実にフタをしてしまうのです。これもせつないことですよね。

おとうさまとのことで思い出されたものがありました。それは暖かい気持ちを伴うものでした。私は実は愛されてたんだ、とおっしゃった後、そんなおとうさんに私はなんてひどいことをしてしまったんだろう、と自分を責められます。

通常はここで、愛されることを受け入れることと受け入れないことの2者を統合します。しかしこの時はそれをすることがためらわれました。そんな簡単に片付けていいことじゃない。だって受けた仕打ちはひどかったんだもの。そこで、恨んでしまった自分と責めてしまうと、それは仕打ちを受けた時のちっちゃいちゃんに対して、ええこともあったんやからちょっとぐらい我慢しいや、と言い聞かせることになってしまいます。

その後もお気持ちがほとばしっているようで、泣けて泣けて仕方が無い、アイロンをかけていてもお皿を洗っていてもだーだー泣いてしまう、とおっしゃるのです。いつでもスカイプでお話しましょうね、とお伝えしましたがなかなかタイミングが合いません。自分でなんとかします、見つけます、と言われましたがすぐに対応できないことが申訳なかったです。

ある朝、サクラさんからメールが届きました。「水、water!」と書かれていました。なんだろ、水が飲めないのかな、身体の調子が悪いのかな、わかりません。しばらくして、「わかりました、気付けました!」と。それを見て私もわかりました、ああ、ヘレン・ケラーか!ヘレン・ケラーが水の存在に気付けた時と同じなのか、気付けたのか!!

サクラさんが気付いたものは

罰金覚悟で
先生
サリバン先生
愛してるってこれなんですねー

って今朝

胸が苦しいのも
吐きそうなのも
怒ってるのも
全部全部

好きの100本ノックとかも
なんで自分はそれが好きなのかって
これが好き
これを愛してる
なんで愛してるのかって
全部全部
気づけるための
ものなんですね

自分の好きが自分を作ってる
なんで好きなのかには、
全部わけがある
理由がある
それは自分のちっちゃいちゃんの宝物に繋がってるから
だから、わからなくなったら
宝物に
愛されてた思い出に気づくためにその手がかりがかくされてる
自分の好きの中に

愛してるがよくわからなかったんみたいなんてす

ヘレン・ケラーが
言葉と水がつながったみたいな
なんかそーゆーかんじだったんです

変かもしれないけど
そー思ったんです

何度も何度もいまぷさんから教えてもらってたのに

桜がきれい
桜がきれい

愛してる
愛してる
愛してる

気持ちが
こころが
わからなかったんです

こういうときに
こういう感じになる
ってことが
わからなかったんです

ふつうに
みんなが、当たり前に
わかることが
わからなかったんです

サクラさんは自分の中の宝物の存在に気付けたのです。
宝物の光が罪悪感の陰を消してしまいました。

 

これがねー、いつやってくるかわからないものなんですよ、「腑に落ちる」という感覚。引っ張り出すためのお手伝いは出来るんですが、無理矢理感じさせることは出来ないんですよ。ほんと、その時を待つしかありません。

そして最後に、言いたかったのに言えなかった言葉が出てきました。
恨みの言葉でも相手を責める言葉でもなく、自分の中の善い気持ちを伝えるための言葉。
これこそが自分の中にある、隠れていた宝物の正体です。

これからも気持ちがぶれることはあると思います。想定外のトラブルだって起きるでしょう。でもやっと再会できた宝物の存在は、たとえどんなに小さくてもサクラさんの心に灯をともし続けてくれることでしょう。

見えなくなることはあっても、消えることはありません。

あなたの中に隠れている宝石、灯、見つけるお手伝いさせていただきます。見つかるまで、伴走させていただきます。

最後までお読みくださりありがとうございました✨
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