家を片付けられないのはなぜ?

50代女性さま、セッション後のアンケートにご協力いただきました、ありがとうございます!

1:今回コネクトロンのセッションを受けることを決められたきっかけを教えていただけますでしょうか?

自分なりに努力をしましたがもはや、自分一人では問題を解決出来ない、間近に破綻の時が迫っていると分かったので、数年前からブログを拝見していて自分とは別の切り口を持っていらっしゃる、いまぷさんにお願いしてみようと思いました。

※私にはない力をお持ちでした。それはずっと私が欲しくて仕方がないけど叶わないものでした。それを持ってしても解決できないことがある、自分のことは自分ではどうしようもない、私の存在意義があるじゃないの!と喜べるかと思ったら素直に喜べない複雑なものがありまして、その「力」を持った人の存在というのは私にとって如何ともしがないものなのですよ。そういうものに(どういう?)ずーっと翻弄されてる感があります。もちろん私が勝手に右往左往してるだけなんですけどね。

2:問題解決のためにコネクトロンと比較されたものはありますか?(心療内科、占いなど)

いいえ。

3:セッションを受けることに不安はありましたか?

はい。相性が合うか、おちからはどれ位お持ちなのかを知りたくて、まず血液センターのボランティア仙龍華さんに会いに行きました。

※試験に合格できたようで嬉しいです!!

4:セッション前にあった問題の原因は見つかりましたか?

はい。

5:セッションは問題解決のお役にたちましたか?

はい。親身になって頂き有難うございました。いまぷさんは亡き祖母以来、私を丸ごと受け止めて優しく寄り添って下さいました。

6:コネクトロンのセッションを薦めていただけるなら、どのような方におすすめいただけますか?

自分で自分を持て余している方。

※これ、力を持っていることの自覚がないと言えないことですね。力のコントロールがうまくできない。持てる者ならではの悩みです。残念ながら私にはない悩みです。

献血ルームで提示されたお題は「家を片付けられない」でした。「家を片付けられない人って家を大切にできていない、家とか家庭とかにネガティブなものがあることが多いですよー」とカードもサイコロも使わず即答した記憶があります。その時に出たカードはたしか復讐だったかな。
f:id:connectronkobe:20160115183525j:image
果たせなかったものの正体は何か。

結論から言いますと、家を片付けられなかったのは家を片付けたって評価に繋がらないからです。持っていらっしゃる優秀さを発揮するには家事では不足なのです。ご自身の優秀さを発揮する土俵ではなかったのです。

そして、家事とはご自身を拘束するものだったのです。

6歳の頃から親に代わって家事を手伝って、いや、仕切っていらっしゃいました。本当にやりたいことを犠牲にして家族のために家事をなさっていらっしゃいました。そしてそのことに感謝や評価はありませんでした、やって当然なことでした。

力を発揮することで得られる達成感、充実感、それを家以外の場に求められました。

常々申しておりますように、力のない人が力以上のことを求めるよりも、力を持っている人がそれを発揮できないことのほうがトラブルが多いです。なぜならトラブル解決に力を費やしてしまうからです。トラブル解決選手権ですよっ。トラブル解決選手権でチャンピオンになるためには、そらーすごいトラブルと対峙しなくてはなりません。艱難辛苦、カモーン!

何かを生み出すという生産的な選手権ではありませんので、勝負相手(だれ、それ)がトラブルを乗り越えると、負けるもんか!とさらなるトラブル解決に取り組みます。取り組むということはつまり、トラブルを引き寄せるということです。解決するものがないと自分の力を発揮できないですからね。

評価してくれない母、抑圧するだけの父、安らぎの場ではない家庭、これだけ書くと珍しいことではありません、多くの方が抱えていらっしゃる図式です。この方ならではのこと、それが「(私にはない)力」です。取り扱い要注意のね。

この力をトラブル解決選手権の武器となさっていました。ニワトリが先か卵が先か、武器を強化すれば向き合う的も強力なものとなります。ゲームのステージがあがればボスキャラが手強くなるのと同じですよね。そして武器を強化することをせっせとなさっていらっしゃったのです。当然、より強力な的と戦うことができます。

それをですね、ご自身だけではなくて「人のため」に使っていらっしゃいました。自分のためじゃなくて人のためだったら、強化することに躊躇がありません。力を強めることはより人のためになれることですから。でも力を持ったご自身にも当然強力な敵はやってきます。だって敵を打ち倒すことは選手権での勝利ですから。

褒めてくれなかった子が自分で自分を褒めるのです、どう、私ってすごいでしょ!こんな強敵をやっつけてるのよ!と。

自分を痛めつけてまで。

人の犠牲の上に他者の幸せは成り立ちません。イエス・キリストが我が身を犠牲にしたことは大衆にとってありがたいことではあるかもしれないけど、それが罪悪感を全く伴っていないことはないのではないでしょうか。とまで言っては話が飛躍しすぎですか、そうですか。

 

http://connectron.love/20150918-1442573872/

↑エンパス〜完結編と同じように、その力を持つことに必然性があった時期は確かにあった、それは自分を守るためだった、でもその力を持つことのメリットとデメリット、後者が前者を上回っているのならばその力は必要ないのではないか。

と、力を持たない者は思っちゃうんですよねー。力を持つデメリット=トラブルを引き寄せる、です。

家を片付けられないのは、家事に拘束されたことへの復讐、そして度重なるトラブルは乗り越えるハードルを高くすることによって自己評価を高める手段、勝負の相手への負けるもんか!という気持ち、この気持ちはお父様に対して強く出てきました。

お父様との間にあった問題は、当然ご主人さまとの間に違う形となって現れます。現象としてはいろんな問題がありましたが、つきつめればこれだけ、「言いたいことが言えない」でした。ご自分を抑えて、甘えること、弱さを出すこと、という女性性の部分にフタがされていました。向き合ってくれなかった父親への思いは、自分がパートナーに向き合わない、距離を置く、という形になっていました。

最終的にご提案させていただいたのは、持っていらっしゃる力を邪悪なものを退治するためではなく、善きものと繋がるお手伝いのために使っていただくこと。その力を犠牲を伴わずに行使していただくこと。

どのセッションも、私自身にいろんなことを考えさせてくれる機会となっています。今回も、私が提供させていただいたことより教えられたことのほうが多かったように思います。

でも私がやってることはただひとつ、ヨシヨシです。ヨシヨシが私の問題解決の手段です。だって特別な力はないんだもの。

ブログランキング・にほんブログ村へ 
⬆︎ポチッといただけると励みになります♪

この記事をシェアする
関連記事はこちら
アーカイブ