みなさんご存知のように(知らんか)私には多発性硬化症(通称MS)という持病があります。持病と口にするのが憚れるほど、お陰さまで日常生活には何の支障もなく普通に生活できているのですけど、病気のことが頭から離れたことはありませんし、私の53年間の人生で発症したことは3指に入る大きな出来事です。
病気になったことにどんな意味があったのか、というスピっぽい考え方は好みません。病気になったことで何に気づけたか、何を学べたか、のほうがしっくりきます。気づくことに意味があったのだ、とはちょっと、いえ、全然違います。
発症して、それが治らない難病とあって、私も藁にすがりに行ったのですよねー。
人はなぜ藁にすがりに行くのか?そこに藁があるからだ(激違。
浮き輪がなかったから、救命具がなかったから、自分を助けてくれるものが何もないところに藁が流れてきたら、これにでも掴まってしまえ!となるのですよ。端っから浮き輪や救命具には目を向けないで藁ばっかり探してる人もいるかもしれませんが。
<代替医療も求められる場合があるのか>
菊池:そうすると逆に、宗教みたいなものは残しておく必要があるわけですよね。でも、残しておくものを考えると、それはそれでだんだんわからなくなってくる。代替医療の話とかを考え始めると、ものすごく難しいですよ。たとえば末期がんとかの人で、明らかに普通の医療では、余命何ヶ月かで、延命治療をしてもしょせん延命にしかならないというような場合。たぶん2ヶ月なり、3ヶ月なり長く生きるけれど、ちょっと苦しいよというようなときに、誰かがホメオパシーみたいなものを勧めたなんてケースは否定しづらいですよね。
香山:それはいわゆる、わらにもすがるというような場合。
菊池:ちゃんとした治療を受ければサバイブできるという状況下で、代替医療をしたために死んじゃいましたというケースは僕は許しがたいと思うんです。そうではなくて、わらにもすがる。いまの医療技術では命は助かりませんが、頑張ってたとえば2、3ヶ月延命できますと、だけど、ちょっと苦しいよと。それに対して、代替医療をほどこしても、まったく延命はできません、それどころか2、3ヶ月早く死にます、だけど当人がそっちのほうが満足できるというような場合にね、、、、。
みなさんご存(ry)、私は占いに携わるようになってから科学と非科学、オカルトと非オカルト、そういうことにどうにもはっきりとしたものをまとめることが出来ず、しかし説得力のあるものは科学、非オカルトなものばかりでなぜ占いは当たるのか、ということに説得力のあるテキストを得ることができませんで。
で、NLPさえもオカルトと定義する人もいますし、東洋医学も非科学とされています。
占いやって、NLPやって、東洋医学を信頼している立場としては、ここんとこどうモウシンジャーとならぬようにテキスト化するか、ってのがたいへん大きなテーマだったのですが、どうにもまとめられないのでいったんそれはあきらめて、すがった藁の変遷の記録を綴ることにいたしました。
なんかご参考になればいいのですけど。
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溺れる者は藁をも掴む(02)〜病名確定