12)漢医堂〜溺れる者は藁をも掴む

最近はちょっと収まってますけど、私は咳をよくします。ヒサシぶりに会った人など、いまだにその咳してるんだね、って言われます。もともと呼吸器系が弱いのです、小学生の時に肺浸潤をやったらしいのですが、まったく記憶にありません。

みなさんご存知のように(知らんか)私は早口です。本人は自覚ないのですけど、早口だと言われます。献血ルームでも早口すぎる、というご感想を頂戴することがシバシバ。実は自覚あります(どっちやねん)。ゆっくり喋れないのです、息が苦しくて。勢いに乗せて言葉を出し切ってしまわないとしんどいのですよ。わかるかなー、この感覚。頭の中に喋るべき台詞が浮かびます、それを早口で読んでるって感じなんですね。息が続くうちに喋ってしまわないと、全部読むことが出来ないのです。

そうなってしまったのは稲田先生のところを遠ざかって中濱先生の施術を受けなくなってしまってから。明らかに体調が悪くなりました。私だけでなくチビのメンテも必要ですしね。困った、困った、こまどり姉妹。ほんま大げさでなく手当たり次第に目につく治療院に行き倒しました、どっかにいいとこはないか、と。

豊田診療所にも泣きつきましたが、胃が冷えてそのせいで肺も冷えてしんどいのだ、と。さらなる厳重な冷え対策をしましたけど効果なし。息ができなくて外で倒れ込んでしまうようになってしまいました。

そうこうしてるうちに見つけたのが漢医堂さん。初診の時に治療してくださったのは今はもう独立されていらしゃらないお弟子さんだったのですが、その施術の丁寧さにびびりまして。え、料金いくらだっけ?お金たりるかな??と。

いかんせん鍼灸体験は中濱先生が初めて。稲田先生のところでの中濱先生の治療は押し寄せる赤ちゃんをさばくために、短時間で効果をだすやり方だったのです(ぶっちゃけ荒っぽかった)。私はそれが鍼灸治療だと思っていたのです。

私にとって治療とは、今ある症状を改善して貰えることです。痛いものが痛くなくなる、動かないものが動くようになる、たとえその場ですぐではなくても。不自由なものをどうにかして貰えないなら意味はないのです。私のメインの困った症状は麻痺と息苦しさ。

以前に書いた記憶あるのだけど過去記事見つけられなーい。コネクトロンにお越し下さってる内科のドクターのお話がたいへん印象的でして、患者さんが訴えている不調の原因を「当てる」とおっしゃったのですよ。患者さんのためにやるべきことのひとつとして「当てる」までの時間をいかに短くするか。体調不良の患者さんにとって長い診察時間は負担になるからと。そして検査機器にまかせるのではなくて聴診器で探る。

血圧はかるのってほんとは聴診器で脈をみながら計測すべきなんですよねー。機械で測定するのってほんとの数値とはかなり誤差があるのですよ。内科医の武器は聴診器、聴診器ひとつで患者さんの身体に臨む。ご自身の「当てる」「探る」技術に揺るぎない自信をお持ちでした。

これとほぼ同じことを漢医堂の院長もおっしゃいました。施術は片手で脈をみながらもう片手で鍼を使うというもの、ほとんど刺さってません、気の流れを整える、と表現されましたけど、気っていうとややこしくなってしまいますけど、実際に脈状が変わるんですね。脈をあるべき状態に戻すために、原因を探りながらやっていく。

この「探る」というのが非常にフィットしましてですね。みなさんご存知のように(知らんか)セッションの間しょっちゅうサイコロ振ってますけど、あれがまさに探ってるんですよ。今の発言にどんな意味があるんだろ、とか、穴ぼこの核心に近づいてきてるかな、とか、そんなこと見てるんです。

病気の原因にしても、そらー一発でわかることもあるでしょうけど、「探る」という作業になんか丁寧なものを感じるんですよねー。

よくあるのがですね、OSHO禅タロットで「Schizophrenia」のカードが出て、あんたは統合失調症や、って言われるの。たしかにそうかもしれない。でも「だから?」となってしまう。じゃあどうすればいいの?なんでそうなったの?そのことでどうなってしまっているの?統合失調症であることで引き起こされる問題から救われるための提案が得られない。

よその占いで、これこれこんなカードが出てこれこれこんなんやって言われたけどどうしたらいいんでしょうか、とコネクトロンに来られる方がたいへん多いです。カードの提示だけでは問題は解決しないのです。

おっと、脱線。

脈をとって瞬時に、ああ、今日はこれだねー、と言われることもあれば、なんかややこしいな、とあっち探りこっち探り、と時間がかかることもあります。難物件もあることでしょう、手も足も出ないってことないですか?とお尋ねしたら、豊田先生からも中濱先生からも聞かされた例のフレーズが出て来ましたよ。

絶対にどうにかする

絶対ということはあり得ないかもしれません、軽々しく口にしてはいけないことかもしれ
ません、でもそれをあえて言うということに自分の技術への矜持と患者の想いに応えてくれるという安心感があるのですね。そこにすがってしまうのですよ。この人にならどうにかしてもらえる。何かあっても頼ることが出来る、と。その場ですべての不調が霧散することはなくても、未来に希望を繋げてもらえます。

これは私自身が問題解決において目指している、心がけていることそのものです。

麻痺はいつも左の頬に真っ先にやってくるのですよ。あ、来たな、と思ったらいつも漢医堂さんに駆け込みます、どうにかしてよ、と。

直近でいちばんひどい麻痺が来たとき、脈をみながら「最近、お酒の量かわった?」と尋ねられました。実はその時、お酒を断ってましてね。チビとケンカして、お酒やめたらええんやろ!となってたんです。(ない)胸をはって「飲んでませんっ」と答えたのですが、麻痺の直接の原因はそれである、と。肝臓に大量に投入されていたガソリンが無くなって虚になってしまってる、みたいなこと言われたと記憶しています。その時点で禁酒して1ヶ月くらいだったのですが、体質は3ヶ月で変わるからあと2ヶ月でお酒のない状態に身体が慣れるよ、と。

えー、じゃあお酒飲んだら治るんですか?いやー、チビちゃんの手前、ぼくの口からそんなことはよう言わん、と。

飲みましたよ

治りましたよwww

お酒、バンザイwwwwww

これが院長の見立てのすごさをわかっていただくのに適切なエピソードかどうかはわかりませんが、当てる、探る、絶対にどうにかするという姿勢、というこの3つが私にとってすがるに値する藁としての必須条件なのです。

次回は最終回です。

最終回)スピはボキャ貧〜溺れる者は藁をも掴む

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