ラブパックさぼってスイマセン、スイマセン。実はあれ、書くのとてもめんどいんです。いっかい手をとめてしまうと、なかなか再開できません。そのかわり(どの?)といってはなんですが、文鳥さまとニワトリの画像をあげておきます。
ニワトリの大きさがわかっていただけますでしょうか。
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女性にとって姑というのは母親のシャドーであることが多いです。職場におけるお局さまもそうですけどね。母親から受けた仕打ちと姑・お局さまから受けた仕打ちの因果がわかりやすいのです。
では、舅は父親のシャドーなのか。
そもそもシャドーとは何でしょうか。
シャドーとは「影」です、本体ではありません。本体そのものが姿を表すのではなく、その影が現れるのです。
なぜ本体は姿を現さないのか。
見たくないからです。なので影として姿を変えさせるのです。
見たくないのはなぜか。
傷があるからです。本体に傷つけられた痛みがあるからです。その痛みに向き合いたくないから、蓋をしておきたいから本体をひっぱりだすことはないのです。
でも。
痛みはあります。その痛みが声をあげるのです。
痛いよー
まだ治ってないよー
傷ついてるんだよー
治してよー
シャドーがもたらす痛みは、治してよ、という救いを求める声なのですよ。
さて舅によって気づかされる痛みとはなんなのか。
舅も姑も自分の親ではありません。配偶者の親です。舅や姑のお世話をなさっている嫁としてのあなた、あなたは人の親の世話をしているのです。本来ならその子(夫)がしなくてはならないことを。
舅・姑問題の最前線にいらっしゃる全国の嫁のみなさま、自分ひとりが悪戦苦闘していることについて、自分の親なのにまるで他人事のようにしている夫に対して、「誰の親やねん!あんたの親やろ!!」というセリフが喉まで出かかっているのではないでしょうか。あ、実際に喉から発せられたこともありますか、ああ、でも暖簾に腕押し糠に釘でしたか、そうですか。
つまり、舅問題とは夫とその親である舅の、親子の問題なのですよ。それが嫁に転嫁されてしまっているのです。
さらに、自身の問題を家族に転嫁してしまう、棚上げしてしまう習慣を作り上げてしまっていることの積み重ねが飽和状態になっているということです。
つまり、つまり、夫婦の問題です。夫婦の間でのコミュニケーションギャップが互いが直接言葉を交わすという形ではなくて、間に舅を介在させることになっているんですね。
だったら、夫婦が会話をする、気持ちをぶつけあう手段として舅を使うのではなくて、直接対決すればいのですよ。そうすれば舅に夫婦を取り持つという役割は必要なくなります。舅にわずらわされることがなくなります。
自分の親に向き合うことができない夫、その夫に向き合うことができない妻。
もちろん舅は、息子に向き合うことができない父親です。
向き合えない関係が二重三重になってますけど、つまりこの舅というのは向き合って貰えなかった痛みの象徴、シャドーとして顕現している存在なのですよ。
これがね、母親のシャドーとしての姑ってのとちょっと違うとこなんですね。
あなたが本当に言いたかったこと
本当に言って欲しかったこと
欲したのに果たせなかった痛みというのは、蓋をしきれなくなった時に声をあげます、シャドーという姿になって。
せっかく声をあげてくれたのですから、どうぞ、その声に耳を傾けてあげてください。
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チーズフォンデュ部活動報告です。
すでにワインの瓶が空になっていることにご注目ください。サニーレタスの中には生春巻きが埋もれています。これは春巻きの皮が乾燥してしまうのを防ぐためです。私はお節のお重を詰めるときにもサニーレタスを多用します。
わざわざ京都からR子ちゃん、チーズフォンデュには白ワインを1本まるごと使うというT実ちゃん、そしてホテルバイト同僚の留学生Sちゃんと、Sちゃんの同郷のNさんがやってきてくださいました。
ニワトリがかわいい!と言ってくれたSちゃんに対し、「これが日本の当たり前だと思っちゃダメだからね。こんな風にニワトリ飼うのってこの家だけだからね!」とR子ちゃんから厳しい指導が入りました!!
次回はたこ焼きプレートで流行りのアヒージョをしたいと思ってます!!