○○学を勉強している人が苦手なワケがわかった

もうっ、すぐにっっっ、わかるんですよっっっ。

○○学を勉強してる人ってのは。

口から発せられる言葉のほとんどが○○学の用語。

そして常に自分を分析。

分析=思考

なので、感じるということをしない。

考えてばっかり。

気持ちが出てこない。

やりにくいったらありゃしない(魂の叫び。

かつて人気手相見さんに言われました、人が知りたいのは自分と自分の未来、それを教えてくれるのは占いだ、だから人は占いに走るのだ、と。

私は自分のことも未来も知りたく無かったから占いに気持ちが向かなかったんですかね。

そうか、昨今の○○学はかつての占いと同じ用途で利用されているのか。

SNSでも心理テストが溢れかえってますやん。

あれって個人情報を抜き取るための手段なのに、みんな不用意にもほどがあるぞ!

おや?コネクトロンにもこんなテストが??

↑よかったらやってみてください

今日の参考図書

やだ!PHPなんか読んでるなんて、恥ずかしい!!電車乗るのに、暇つぶしに買っただけなんですよ(言い訳。

意外な執筆陣でした。

荻上チキさんの連載、「孤独の教室」、性格ごとに孤独対策は異なるというタイトルで、心理テストの流行りについて触れられていました。

科学的根拠を欠き、人をステレオタイプ化する「検査結果」表示を示すため、自己理解を狭めたり、他者理解を妨げたりするなどの問題があります。

中略

性格をいくつかのカテゴリに分類して捉える類型論は、物事をわかりやすくするには向いていますが、個々人の細やかな特徴や変化を把握することを難しくしてしまいます。そして、あたかも性格が、他者とは異なる固定的なものであるかのような印象を与えるかもしれません。

割った、割った、膝の皿を割った。

分析に頼りたくなる気持ちはわからんでも無かったけど、それがなぜ気持ち/感情を失わせてしまうのか。

丸めることによって切り捨てられる部分が必ず出てくる、そこにこそ、その人ならではのものが内包されているだろうに。

甘いものが好きな人、と超大雑把にまとめてしまったら、洋菓子好きさんと和菓子好きさんは甘いものというだけで括られて困ったことになるようなもので(違。

いえ、違いません(どっちやねん。

私が好きなのは洋菓子なんだけどなあ

私は洋菓子より和菓子が好きなんだけどなあ

でも、甘いものが苦手な人からしたら、どっちもただの「甘いもの好き」クラスタになっちゃうんだな。

私の生クリームへの愛はどうなるの?

俺に小豆を語らせろよ!

生クリームや小豆への愛に蓋をしてしまい、世間一般にわかりやすい「甘いもの好きさん」で落ち着いてしまう。

ま、いっか、甘いもの好きには違いないし。

みなさんご存知のように(知らんか)、「ま、いっか」ってのは諦めの気持ちの表れですからね。

分析、どこかの枠に自分を押し込めてしまうことは、枠には収まりきらないものを切り捨てるということ。

それこそが、自分を表す部分だったりするのに。

私って〜なのよねー、と他者にわかりやすい枠に押し込めることは、自分を自分たらしめる特徴を削り取ってしまうことなのかな、と思いました。

え?○○学って何かって?

心○学ですよ、○理学。

心理学での自身の分析という鎧を着込んでいる、病名ついたら安心するってのと同じように感じました。

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