認知の歪みにはいろんなパターンがありますが、これは認知の歪みであると認識もされてないのじゃないかなあ。
それは
一般化。
一般化とは、本来なら「個」であるものをクラスタにまとめちゃうことです。
例えばですねえ、自分ちで飼ってる文鳥が可愛いとしますよね。
うちのブンタンは可愛いの❤️
↑これに対する返答として
①だよね、ブンタン可愛いよね
②だよね、文鳥って可愛いよね
どっちが喜ばれると思いますか?
私だったらどっちも嬉しいです(なんや、それ。
自分のブンタンの可愛さをわかって貰えた喜び、文鳥なる生き物の愛らしさを理解してもらえた喜び、どちらもあります、どちらもあるのですが。
が。
もしもこのブンタンが非常にキャラの立った文鳥であったなら、世間一般のかたがイメージするところの文鳥と一線を画すものであったとするならば。
心が猫の額より狭い私であったら、②の回答をもらったなら
うちのブンタンをよその文鳥と一緒にするな!
となりかねません(心、狭すぎ。
一般名詞の文鳥と、固有名詞であるブンタンは似て非なるものなのです。
非常に優秀な女性がいます。
彼女の優秀さを讃えるのに
女の人ってすごいよねー
と連発される殿方がおりましてね。
女がみんなすごいわけでなし。
あ、この殿方の周りにはすごい女性しかいないのか。
だから、女の人ってすごいねー、という発言になるのか。
ま、それならいいでしょう(いいのか。
なんで○○さん、すごいねー、とならないのか。
実は一般化は男性の方がよくする傾向にあるそうです。
男性(特に日本は)個人ではなく属性で行動することが多いからですかね。
上記の例であるなら、すごい成果をあげた女性がいた場合、女性は○○さんすごいね!となるのです。
しかし、男性の多くは「女性はすごいね」となるそうなのです。
意識してみてください、実際そういう例が多いです。
〇〇さんという個人を「女性」という属性でしか評価しないのって、個人を見てないってことです。
属性にまとめると便利なこともあります。話は早くなることもありますが。
が。
個々の問題が見えにくく、曖昧になっちゃうのですよ。
解像度という言葉も最近は流行りですが(流行りなのか?)、属性でまとめるとまさに解像度が下がるのですよ。
敷地の境界線を想像してみてください。
線がはっきりしてなかったら、どっからどこまでがどっちの土地や、ってのが分かりにくじゃないですか。
言葉のチョイスにその人の思想が如実に現れます。
例えば(私の嫌いな)3点リーダーとか、語尾をあげるの↗️、これって他者に判断を委ねる、自分で言い切ってないって責任逃れなんですよねー。
ずるいんですよ。
いかん、熱くなってきた(どう、どう。
すごいと思う人が目の前にいたなら
○○さん、すごいよね!
と、はっきり自分の意見を伝えてください。
女の人はすごいよね、っていうより、よほど喜ばれると思います。