親をかばう子どもがやってしまってる言い聞かせ、何を言い聞かせてるかというと、自分は親からひどい目に合わされたりしてない、親は悪くない、ってこと。
親からされてしまったことにフタをするために、親からして貰ったほんの些細なことをそれはそれは美化する。
虐待され続けた数十年よりも、たった1回遊園地に連れていった想い出を大切にする。
遊園地に連れていってくれたもの、だからおとうさん私のこと大切なのよ、私のこと可愛がってくれてたのよ。
たとえその1回以外の全ての日に殴られていたとしても。
これが相殺です。もとい、相殺しようとしていることです。
1回の遊園地の甘い想い出(そしてまた、それが甘くなかったりする。おとうさんの地雷がいつ爆発するか、びくびくおどおどしていて遊園地を楽しむどころではなかったりする。でも、甘い想い出というコーティングが必要なのです。)と数十年の暴力は相殺できるものではないのです。
なぜ相殺しようとするか、自分が辛い目にあったということを受け入れ難いからです。愛されていなかった惨めな自分ではなくて、ちゃんと愛情をかけられていた自分、と思いたいのです。
ポジティブなとこにだけフォーカスしろという考え方、たしかに前向きでいいのですけど、じゃあ傷の部分はどうなるの?どうするの?ポジティブなとこに目を向けるだけで傷は治っちゃうの?
親と子という関係以外で頻発する言い聞かせがDVですよねー。「愛してる、もう暴力はふるわない」という1の言葉を心の支えに、100の暴力を耐え忍ぶのですよ。
殴られました。傷が出来ました。
抱きしめられました。嬉しいです。
でも、傷は治ってません。抱きしめられたことと傷は相殺できません。
受け入れ難い傷に向きあって、それを治した後でこそ、もらった宝物の輝きをより受け取ることが出来るのです。宝物の輝きを穴ぼこを埋めるために使ってはいけません。埋まりませんから。
相殺しようとする気持ち、それはそれだけあなたの傷が大きいというシルシです。どうか傷にフタをしないでくださいね。
痛かったねー、って傷にふーふーしてください。よしよし、痛かったねー。
痛くない、痛くない、が効力を発揮できるのはふーふーしてからですよ。