03)トイレの神様

これ↓の続き

02)トイレの神様


58年生きてきて、自分のダメなところをようやく言語化することができるようになりました。
1しか知らないのに10知ってるフリをすることが得意、そして困ったことにそれでどうにかやれているので、10を知る努力をしない。なので、本当に10が必要な時には役に立たない。
以上。
長年私を苦しめている「頑張れない病」とは、10を知る努力をしないことなのです。
1しか力がないのなら諦めもつくのですが、私は永遠の「まだ本気出してないだけ」「やれば出来る子」なんですよ。
本気出してない子、やれば出来る子にありがちな思考パターンは、自分より出来る人をみて「私だって出来るのに」「私の方がもっと出来るのに」と、1人マウントをしてしまうことですね。勝負の土俵に上がってないのに、根拠のないマウントしちゃうのですよ。バカなの!!バカよね!!
卑屈と傲慢が織りなすタペストリーに雁字搦めになっているのですよ。
ここんとこ10を知らないがゆえのデメリットに直面させられておりまして、でも10を知る努力に着手できない。ダメポ沼に沈み込んでおりました。
みなさんご存知のように(知らんか)コネクトロンの直近のテーマは「あなたは悪くない」です(今後、変わるかもしれませんが)。いかに自責、罪悪感から自由になっていただくか、ということはずっとセッションのテーマです。あなたの「せい」じゃない、他の誰かの「せい」なのです。あなたに選択権がなかった何かの「せい」なのです。
選択権がなかった最たるものといえば、自分を鉢植えの植物とするなら、どんな植物になるか、どんな土壌で育つか、どんな場所に置かれるか、自分で選ぶことはできません。
スピ系では選べる説が有力ですが、それが救いになるケースがゼロでないとはいえ、その最先鋒的なものが今はフルボッコですね。

過剰な自己責任論が日本の貧困化を推し進めていますしね。
おっと、何の話だっけ。
頑張れないのは何の「せい」なのか、私は考えたのですよ(そんなことしてる暇あったら頑張れよ、って話ですが)。
あーでもない、こーでもない、と記憶の重箱の隅を突く日々が続いていたところにやってきた「ひょっとして愛されていたかも?」疑惑に大いに動揺したのです。
皆さんご存知のように(知らんか)、「されたこと&して貰えなかったこと」と、「して貰えたこと」は相殺できないのです。それは傷口ではないところに傷薬を塗られているようなもの。傷が治るわけではないのです。
して貰ったのに治れないダメな私、という更なる自責となるだけなのですよ。
愛されていたかも、という甘酸っぱいものになぜ必死でフタをしてしまうのか、長く抱えてきた、ちっぽけで惨めな自分、というものを無かったことにしてたまるか!と、はっきり自覚しました。
愛されていた、と認めるより、ちっぽけで惨めな自分の方にまだメリットがあるのです。
そっか、これって絆創膏みたいなもんなんだな。私の傷にはまだ絆創膏が要るんだよ。
頑張れないダメな自分、と焦る気持ちがちょっと楽になりました。頑張れるすごい人になる必要はないのです。まだまだダメ人間をやってていいのです。
と、栓なきことを考えながら駅までの道をテクテク歩いておりましたら。
ら。
瑞龍寺という看板が目に入りました。
おぉっとぉ〜!!
図らずしも、トイレの神様が御坐すところにやってきてしまった。

うーむ、呼ばれているのか。
初めて足を踏み入れました。
続きはこちら。

04)トイレの神様


8月3日は朝活:症例解説会です。

朝活やります!


楽しい(?)症例がいっぱいです!!

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