この2〜3ヶ月ですね、なんかネガな感情が出てきた際には、なぜそれが出てきたのかを徹底的に掘り下げるということをしています。
つまり「風が吹けば桶屋が儲かる」を、風から桶屋まで遡るという作業です。
これをすることのメリットは、原因がわかってスッキリするのはもちろんのこと、原因が自分以外のところにあるとわかることで罪悪感から逃れられることです。
まあ、それがわかっても現状どないも変わらんということもありますが、自分を責めなくて済むというのは(私は)とても救われます。
私の場合、ほぼほぼ100%母に起因することとなり、それはそれでうんざりするのですけどね。
先日、とある心理テストっぽいものをやりました。自分の目標を定める的なものです。目標とともに、それに至る手段も考えるのですけど、いくつか出てきたもののほとんどが「手を動かして書く」ということだったのです。
そう、キーボード叩くのとハンドライティングは違うのですよねー。ちゃんと書かなきゃいけないなとは思っていたので、納得の結果でした。
それをアンドレさん(仮称)に報告したところ
みなさんご存知のように(知らんか)、セッション中に姿を現したみなさんの「ちっちゃいちゃん」の切ない物語、誰もが読んでいただけるものにしなくては、とずーっと思っているのです。
足りないのは筆力。それゆえ「重松清の生き霊よ、降りてこい!」といつも吠えてます(吠えてる暇があったら書けよ。
という、アンドレさんの発言にモヤりました。
アンドレさんの言葉から感じたものは
ちっちゃいちゃん<書くこと
↓
人のため<自分のエゴ
だったのです。
ちっちゃいちゃんをヨシヨシしたい、そのためにみんなの物語の切なさをわかって欲しい、だから書かなきゃ、と思っていたのですが。
が。
書きたい気持ちの方が比重が重いのでは?と指摘されたようでモヤったのです。
「人のために」という気持ちを否定されたように(勝手に)感じたのです。
つまり。
モヤったのは「人のためにならなくてはいけない」「何かの役に立たない自分に意味はない」という思いがあったということです。
風が吹けば桶屋が儲かるをいたしましょう。
風:何かの役に立たない自分には意味がない
↓
役に立つ手段として、ちっちゃいちゃんの物語を書きたいと思っている
↓
ちっちゃいちゃんの物語を書きたいのではなくて、書くための手段としてそれがあるとの指摘
↓
役に立ちたいという思いを否定されたように感じる
↓
役に立てないじゃん、オレは自分のエゴだけの人間かよ
↓
役立たずの自分
さらに追加するならば
あんたを産んだせいで病気になった、との母からの指摘
↓
母を治さなくてはならない
↓
治せない自分はダメじゃん
↓
何かの役に立たない自分には意味がない
↓
役に立つ手段として、ちっちゃいちゃんの物語を書きたいと思っている
↓
ちっちゃいちゃんの物語を書きたいのではなくて、書くための手段としてそれがあるとの指摘
↓
役に立ちたいという思いを否定されたように感じる
↓
役に立てないじゃん、オレは自分のエゴだけの人間かよ
↓
役立たずの自分
ウンザリング
役に立たなくてはいけない、役に立てなかった、需要がない自分
この呪いから、まだまだ解放されそうにありません。
この子は決して役に立たない子ではないのですよ。
親から「あんたを産んだせいで病気になった」と言われたがために、自分のせいで、と罪悪感を抱き、だったら治さなきゃ、となりました。
残念ながら母の病気は治ることはなかったので、治せなかったダメな自分、というジャッジを己に下してしまったのです。
治す力がない自分に需要があるはずがない、と。
こんな感じでーす。「風が吹けば桶屋が儲かる」セルフセラピーとでも申しましょうか。
持て余すイヤな感情に囚われてしまった時、お試しください。
お一人ではどないもならんという時は、もちろんお手伝いさせていただきます。
お前のせいで、と言われてイヤだったよね
自分をずっと責めて辛かったよね
丶(・ω・`) ヨシヨシ