これ⬇︎の続き
タイムリーに、過去記事にコメントを頂戴しました。以下、いただいたコメントです。
私は難しい事を特に考えていない、本当に幼い子供の頃から難病を発症しているので、許すも許さないも、裁くなんてことも意識にない状態でした。
まぁ… 原因なんて人それぞれで。真に効果のある解決方法というのも、千差万別なんでしょうね。
合う人には合っている。ただそれだけのことで。
元ブログエントリーに追記ですが、私は自分も他人も許していない、ということに気づけたので、許してない「せい」で難病にかかったと認めたわけではありません。
ましてや、許さない人がすべからく難病に罹患するとは微塵も思っておりません。
それを言ってしまったら、難病への罹患はすべて自己責任になってしまいますからね。持って生まれた病気であるならなおさらのこと、それを選んで生まれてきた、としかなりませんから。
なぜ病気になるのか、病気で生まれてきたのか、えー、実はこれの答えになるものを見つけまして、それをなんとかまとめられないかと四苦八苦しているのです。
で。
これは「選んで生まれてきた」とはちょっと脱線するかもしれませんが、病気を始め艱難辛苦は自分があえて選んでいる、と認められたなら、それらから脱却することも選べるわけです。
これが「選択」の理論です。
選択とは天秤にかけて重い方を選ぶ行為。能天気でハッピーでいるより、艱難辛苦のほうにメリットがあるからそれをあえて選択しているのです。
何をメリットとしてあえて艱難辛苦を選んでいるかを腑に落とせたなら、そこから脱却できるのです。
これはもちろん、後天的な選択です。
これは「それを選んで生まれてきた」の回答にはなりませんよね、当然のこと。
が。
いまある艱難辛苦を、自分の選択だと思えたなら、そこから脱却するという選択もできるようになるわけです。
自分の選択であると受け入れられないのはなぜか、なぜそれを選んできたのか、ということがわからないからです。ここで黄門様の印籠のように提示されるのが、学びのため、という理屈ですね。
で。
学べた、と思えたなら、自分の選択であると受け入れることができて、脱却するという選択もできるようになるのです。
自分の選択である、という考えは、いわばずるいショートカットかもしれません。
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